やってごらん、見てるから。
私どもよし庵は『見る』という行為をお稽古の中で、とても大切にしています。見るという行為が人の心を動かすきっかけになるからです。
人は、きちんと自分を見てくれる相手を好きになります。そして好きな人の話しか聞きません。
好きだから聞くのです。正しいことを言ってくれるから聞くのではないのです。 もしも、好きな人が正しいことを言ってくれたら、誰でも成長します。それを目指しています。
すぐに手を差し伸べるのではなく、時には少し距離を置き『見る』ことに徹する。
この大切さを教えてくれたのは我が子でした。
子どもが小学2年生の時、夏休みの宿題で『逆上がり』が出来るようになっていること、というものがありました。
運動が苦手な息子は逆上がりも苦手で、毎日夕方に小学校の運動場に行って、鉄棒の練習をしていました。人目があるのは嫌だというので夕方に行っていました。
当時私は今よりも10キロくらい太っていたので、私も出来ず、手本を見せることも出来ませんでした。(森三中の村上さんくらいの体型でした)
『まぁいいか、今日はこのくらいで…』
と逆上がりの練習を切り上げようとしたところ、子どもがタイヤの馬跳びをし始めました。
でも、出来ない。
恐怖心があるのか、勢いが足らず、お尻が引っかかっています。
『惜しいなぁ、もう少しなんだけど…。思い切って行けば飛べるよ。』
『もういい、今日はこれで帰る』
また諦めて帰ろうとしました。
『ダメだよ、跳びなさい。そうやってすぐに逃げるんじゃない。』
『えー、やだよぉ…』
子どもがベソをかき始めました。
『泣くのね。いいよ、泣きなさい。だけど泣いたら跳びなさい。待ってるから。』
そして本当に待っていました。
泣いてもムダだと思った子どもはしばらくして涙を拭いて、跳び始めました。勢いをつけて…
ぴょん!跳べました!
『ほら跳べた!やれば出来るんだ。分かったか』
『うん、分かったー!』
そしてタイヤを端から端まで跳び続けました。
日がとっぷり暮れて、さすがに帰ろうと声をかけた時、子どもが言いました。
『子どもって時には厳しくしないとダメなんだね』
当時7歳の子どもが、まるで大人のような顔をして真面目に言いました。
『そうだね…』
一瞬吹き出しそうになるのを堪えて言葉を返しました。あまりに真面目な顔をしていたので茶化しては悪いと思いました。
この日の行為も、私はただ見ていただけです。
出来ないところも見て、出来るまで頑張った姿も見て、ようやく出来たその瞬間も見た。
成長に立ち会った瞬間でした。
このような濃厚な時間の積み重ねが人と人との信頼関係を築くのだと思います。
そしてお稽古もそのように行っています。
生徒さまとも同じような経験をしました。
物の距離感を掴むのが苦手な生徒さまがおられます。入門してから数年が経ちますがお稽古の準備が自分で出来ません。
仕方がないと思って、いつも私がしていました。
ところがそれが当然という雰囲気が身についてしまい、支度が終わるのを待つようになりました。
これではいけないと思って注意しました。
『お稽古の準備は本来はご自身で行うものです。当然のように待っていてはいけません。』
人にはそれぞれ事情があります。
能力も人それぞれです。
出来ないこともあるでしょう。
だけれども、いつも周りが助けてくれるとは限りません。人はみんな生きるのに必死です。
助けてくれるかどうかは運次第です。
当てにもならない運に身を任せるのはあまりにも危険です。
そうではなくて。
自分を当てにできる存在に育てましょう。
『他人が助けてくれるのを待つのはやめましょう。出来ないことがあっても良い。だけど全面的に頼るのではなくて、部分的に頼るようにしてください』
その時には納得できないという雰囲気で、目線も合わさず、返事もしませんでした。
ところが、次のお稽古でお会いすると別人のようにしっかりしていました。
身体の重心がしっかりと落ち着き、声色も少し低くなりました。
以前はやや高めの声色でほわ〜んとしたのんびりの話し方だったのが、言葉のメリハリも付き年齢相応のスピードになりました。
そして私の話に集中するようになり、1回で聞き取ろうという意欲がはっきりと出てきました。
ああ、良かった。
安堵しました。
自分の投げたボールがやや強めであることは私も自覚していました。
それを真っ直ぐに素直に受け止めてくださった生徒さまには、感謝しかありません。
一緒に人生を歩んでいきましょう。
急がなくていいから、一歩一歩踏みしめて。
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和から学ぶ気品ある仕草 美しい所作教室